執筆欲求。制作会社とお話していると

C-CLAYSは今夜山場のようです。
作詞作業は終わっているのですがここのところ執筆したくてたまらない。
上京してきてなかなかそうは思わなかったので自分を取り戻しつつあるのかもしれない。ので夜中、ここにこっそり。
書くという行為は私が私を取り戻すために必要なバランスのようです。

[お仕事の話]職業柄、番組制作会社さんとよく話すのですがやっぱり最終的に立ちはだかる壁は「どこまで妥協できるか」です。
そして妥協の基準として絡んでくるのはやはり「締め切り」と「ギャラ」という数字の切迫。人は数字には太刀打ちできないなあと、つくづく思うようになりました。数字の前では私は無力だ。いや数字の前じゃなくても私は無力な生き物だけども。数字には叶わない。時間だったりお金だったり数量だったり。
仕事って嫌な上司とか人間関係に悩まされることが多いと聞きますが、戦うべき相手は人間関係ではなく「数字」とかいうビジネスの共通言語なんだろうな。私達は常に数字と戦っている!それが仕事をするということ!

[書くということ]そういう数字との戦いから解放される場所が自分にとって「書く」ということで、もちろん世の作家さんや書く事を職業にしている人たちは常に売上部数だとか集客だとか「数字」がつきまとうわけですが、私は書く事を仕事にしているわけではなく、あくまで番組制作をする上での数字の上にいる立場だから、また全く意味が違います。
ありがたく作詞はずっと依頼を受けさせて頂いて、もう彼是9年近くなりますが、もちろんある意味では数字というところに左右されるものではありますが、恵まれた環境のおかげで好きな事を書かせて頂いていると常々思います。書く事が好きな人間が好きなように書いてそれを聞いてもらえる、聞いてくれる人がいる、歌ってくれる人がいる、製品として形にしてくれる人がいるというのは、このうえなくありがたいこと。
この数字に縛られた世界の中ではまるで奇跡のように思える優しい世界。

[海月が好き]大好きなGarnetCrowの曲でこんな歌詞がある。

君という光 みつけた僕は僕を知る 狂おしく射す
ゆらゆらと波打つ広い海で一緒に流れて居ようよ
ほら何も欲しいものなどない

愛なんて淡い幻想(ゆめ) 思い思い見るもの
それなら誰かと同じ現実(ゆめ)が見たくなる

GarnetCrowが最近異様に好き。解散してもういないのですがそれでも音源があれば聞ける。だから音楽は好きです。現在を切り取るものだけれど過去を運んでくれるものでもあるから。
つい先日、10年前に好きだったバンドの解散ライブを見て泣いている自分がいた。それは一体どういう意味だったか自分ではわからなくて、わからないものに泣いている自分が笑えた。純粋に歳を取っただけかもしれないけれど、なにかそういうものを一生懸命好きだった自分だとか、そのバンドのボーカルが実はすっごい良い事を言っていて、今のこの年齢になって染みたりして初めて気づくこととか。10年たって気づくとかかなり阿呆でやっぱり私は未熟で全然足りない人間だけども、書いているときだけは現実と切り離せて幸せ者だなあと思う。

だから書く事は続けようと毎夜思うし、できれば言葉を伝えたい人もいるのだけれど結局「時間」が邪魔をし、そのせいで心が曇ってくる。その現実との戦いの連続よね、誰もが。みんな、誰かに優しくしていたいと思うんだ。けれど数字と戦っているうちに自分との戦いになっていっぱいいっぱいになって余裕がなくなってくるんだ。そして優しさとか気遣いとか愛とか好きとかを忘れちゃう。私はそれを取り戻すためにこの文章を書いていると自分で思っています。
他の人はどうかはわからないけれど、自分を取り戻す時間って必要です。よね。きっと。

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